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 【日文原著】远藤周作《沉默》连载(第一章 )

作者:未名天日语 来源:未名天日语 时间:2017-05-23  
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一、セバスチァン・ロドリゴの書簡(1)
 
  主の平安。基督の栄光。
  私たちが昨年十月九日、ゴアに着き、五月一日、ゴアから澳門に到着したことは既に書いた通りですが、苦渋な旅に同僚のホアンテ・サンタ・マルタは甚だしく体力を消耗し、マラリヤの発熱に屡々、苦しみ、私とフランシス・ガルペだけは、ここの布教学院で心からの歓待を受け気力は充実しています。
  ただこの学院の院長であり十年前からここに滞在しているヴァリニャーノ師は最初は我々の日本渡航に真向から反対されました。我々は港を一望できる師の居室で、この点について次のように言われたものです。
 「日本にはもはや宣教師を送ることは断念せねばならない。ポルトガル商船にとって海上は甚だ危険であるし、日本に到着する前に幾つかの妨害に遭遇するだろう」
  このように師の反対されたのも尤もで、一六三七年以来、日本政府は、島原の内乱にポルトガル人の関係あるを疑い、通商を全く断っただけではなく、澳門より日本近海に至る海上では、新教徒の英蘭軍艦が出没して、我が商船に砲撃を加えているのです。
 「しかし、我々の密航が、神の援助によって成功しないとは限りません」とホアンテ・サンタ・マルタは熱のある眼をしばたたきながら言いました。
 「彼の地では信徒たちは今や司祭を喪って、一群の仔羊のように孤立しています。彼等を勇気づけ、その信仰の火種をたやさぬためにも、どうしても誰かが行くべきです」
  ヴァリニャーノ師はこの時、顔を歪めて黙っていられました。彼は上司としての義務と、日本における憐れな信徒の追いつめられた運命について、今日までふかく懊悩されてきたにちがいない。何故なら、老司祭は机の上に肘をついたまま、掌で額を支えてしばらく黙っていられたからです。
  部屋からは澳門の港が遠くみえますが、海は夕暮の陽を受け赤く、ジャンクが黒い染みのように点々と浮んでいました。
 「もう一つ、私たちには義務があります。それは私たち三人の師であったフェレイラ神父の安否をたずねることです」
 「フェレイラ師については、その後、いかなる知らせも手に入れてない。彼に関する情報は悉く曖昧である。しかし、我々にはその真偽を確かめる手筈さえ、今はないのだ」
 「というと、彼は生存しているのでしょうか」
 「それさえわからぬ」吐息とも溜息ともつかぬ息を洩らされ、ヴァリニャーノ師は顔をあげられました。
 「彼から定期的に私に送ってきた通信が一六三三年以来、全く途絶えている。不幸にも病死したのか、異教徒たちの牢獄につながれたのか、君たちの想像するように栄光ある殉教を遂げたのか、また生き残って通信を送りたくともその方法を見つけられぬのか、今は何も言うことはできぬ」
  ヴァリニャーノ師はこの時、あの噂通り、フェレイラ神父が異教徒の拷問に屈服したとは一度も口に出されませんでした。この人も、私たちと同様、そのような想像を昔の同僚の上に覆いかぶせたくはなかったのでしょう。
 「のみならず……」彼は自分に言いきかせるように、「日本には今、基督教徒にとって困った人物が出現している。彼の名はイノウエと言う」
  イノウエという名を、我々が耳にしたのはこの時が始めてです。ヴァリニャーノ師はこのイノウエにくらべれば、さきに長崎奉行として多くの切支丹を虐殺したタケナカなどはたんに凶暴で無智な人間にすぎないと言われました。
  やがて日本に上陸した後、おそらく出会うかもしれぬこの日本人の名を記憶にとどめるため、馴れぬ発音を私たちは口のなかで繰りかえしました。
  九州の日本人信徒が最後に送ってきた通信から、ヴァリニャーノ師はこの奉行について多少の知識を持っていました。それによるとイノウエは島原の内乱以後、基督教弾圧の事実上の指導者となったのですが、前任者タケナカとは全く違った蛇のような狡猾さで、巧みな方法を駆使し、それまでは拷問や脅しにもひるまなかった信徒たちを、次々と棄教させているのだそうです。
 「悲しむべきことに」とヴァリニャーノ師は言われました。「彼は、かつて我々と同じ宗教に帰依し、洗礼まで受けた男なのだ」
  この迫害者については、後日、またお知らせすることができるでしょう……。しかし結局、上司として慎重な師も、我々の(特に同僚、ガルペの)熱意にまけて日本への密航を遂に許して下さいました。とうとう骰子は投げられたのです。日本人の教化と主の栄えの為に私たちは、今日までどうにか、この東洋までたどりつきました。今後の行先にはおそらく、あのアフリカからインド洋で味わった船旅など比べものにもならぬ困難や危険が待ちうけていることでしょう。しかし「この街にて迫害せられなば、なお、他の街に行くべし」(マテオ聖福音書)そして私の心には、たえず黙示録の「主にてまします神よ。主こそ光栄と尊崇と能力とを受け給うべけれ」という言葉が浮びます。この言葉を前にする時、他の事はすべて取るに足りぬことです。
  澳門は、ペイコオとよぶ大河の出口にあります。湾の入口に散在する島に建てられた町ですが、すべての東洋の町と同じように、ここには町をとりまく城壁はありません。したがってどこまでが町の境界なのかはわからず、灰褐色の塵芥のような支那人たちの家が拡がっています。とにかく、我々の国のいかなる都市や町の姿をここに想像したとしてもあなたは間違うでしょう。人口は二万人ほどだと言われていますが、それは当てにはなりません。ただ、我々に故郷を偲ばすのは、町の中心に作られた総督の官邸やポルトガル風の商館と石畳の路です。砲台は湾の方に砲をむけていますが幸いなことには、今日まで一度も使われたことがないのです。
  支那人たちの大半は、我々の教えにも耳を貸さぬとのことです。その点、日本はまさしく、聖フランシスコ・ザビエルが言われたように「東洋のうちで最も基督教に適した国」の筈でした。ところが、皮肉なことには日本政府が自国の船の異国渡航を禁止した結果、極東における生糸貿易はすべて澳門のポルトガル商人が独占するようになったため、この港の今年の輪出総額は四十万セラフィンで、一昨年や昨年を十万セラフィン上まわるのだそうです。
 
  私は今日この手紙で素晴らしい報告をせねばなりますまい。私たちは昨日、遂に一人の日本人に会うことができたのです。かつて澳門にはかなりの日本人修道士や商人が渡来していたのだそうですが、例の鎖国以来、彼等の訪れは絶え、僅かに残存していた者も帰国しました。ヴァリニャーノ師にたずねても、この町に日本人はいないという話でしたが偶然の機会から、我々は一人の日本人が支那人たちに交って生きていることを知ったのです。
  昨日は雨で、私たちは日本に行く密航船を探すために支那人町を訪れました。とにかく一隻の船を求め、船長や水夫を雇い入れねばなりません。雨の澳門、それはこの憐れな町を更にみじめにするだけです。海も町もすべて灰色に濡れ、支那人たちは家畜小屋のような家にとじこもり、泥だらけの道には人影もありません。こんな道を見ていますと私はなぜか、人生を思い、悲しくなります。
  紹介された支那人をたずねて用件を話しだしますと、彼は即座に、一人の日本人がこの澳門から帰国したがっているのだと言いました。早速、求めに応じて彼の子供が日本人を呼びに行ったわけです。
  生れて始めて会った日本人についてどうお話したらいいでしょう。よろめくようにして一人の酔っぱらいが部屋に入ってきました。襤褸をまとったこの男の名はキチジローと言い年齢は二十八か九歳ぐらいでした。我々の問いに漸く答えたところによりますと、長崎にちかいヒゼン地方の漁夫だそうで、あの島原の内乱の前に海を漂流していた時、ポルトガル船に助けてもらったのだそうです。酔っているくせに狡そうな眼をした男でした。私たちの会話中、時々、眼をそらしてしまうのです。
 「あなたは信徒ですか」
  同僚のガルペがそう訊ねると、この男は急に黙りこみました。ガルペの質問がなぜ彼を不快にさせたのか、我々にはよくわかりません。始めはあまり話したがりませんでしたが、やがて我々の懇願を入れて、九州における基督教迫害の模様をぼつぼつ、しゃべりだしました。なんと、この男はヒゼンのクラサキ村で二十四人の信徒たちが藩主から水磔に処せられた光景を見たのだそうです。水磔というのは、海中に木柱を立てて基督信者たちを縛りつけておくことです。やがて満潮がくる。海水がその股の処まで達する。囚人は漸次に疲憊し、約一週間ほどすると悉く悶死してしまいます。このような残忍な方法をローマ時代のネロさえ考えついたでしょうか。
  話をしている間、私たちは妙なことに気がつきました。この身震いのするような光景を我々に呟きながら、キチジローは顔を歪めると、突然、口を噤んでしまったのです。そしてまるで記憶の中からあの怖ろしい思い出を追い払うように手をふりました。おそらくこの水磔に処せられた二十数人の信徒のなかに彼の友人や知人がいたのかもしれない。我々は、触れてはならぬ彼の傷口に指を入れたのかもしれません。
 「やはり信者だね、あなたは」ガルペはたたみ込むように訊ねました。「そうでしょう」
 「そうじゃない」キチジローは首をふって、「そうじゃない」
 「しかし、あなたは日本に帰りたがっている。我々のほうは幸い船を買い水夫を集める金をもっている。だから、我々と同じように日本に行くつもりならば……」
  この言葉に酒に酔って黄色く濁った日本人の眼が狡そうに光り、部屋の隅で膝をかかえたまま、ただ、故郷に残した親兄弟に会いたいから帰国を願っているのだと、まるで弁解でもするように呟きました。
  こちらはこちらで、ただちにこのおどおどした男と取引を始めました。うすぎたない部屋の中に一匹の蠅が音をたてて同じ所を廻っていました。床には彼の飲んだ酒瓶が転がっていました。とにかく、私たちは日本に上陸したあと右も左も識別できないのです。我々をかくまい、様々の便宜を計ってくれる信徒たちに連絡をつけねばなりません。その最初の手引きをしてくれるよう、この男を利用することが必要でした。
  キチジローは、交換条件に長い間、膝小僧をだいたまま壁にむかって考えこんでいましたが漸く承知をしました。彼にとっては相当、危険な冒険なのでしょうが、この機会を逃しては、永久に日本に戻れそうもないと諦めたのでありましょう。
 
  ヴァリニャーノ神父のおかげで我々はともかく、大きな一隻のジャンクは手に入れられそうです。ところが人間の計画はいかに、もろく、はかないことでしょう。船は白蟻によって食いつくされているという報告を今日、受けました。ここでは鉄や瀝青などがほとんど手に入れがたいので……。
 
  毎日、少しずつこの便りを書いているので日附のない日記のようになりました。我慢して読んで下さい。一週間前、私は、我々が手に入れたジャンクが相当、白蟻によって食いつくされていることをのべましたが、幸い神のお陰で、この困難を克服する方法が見つかったようです。とりあえず内側から板で目張りをして、台湾まで航行するつもりです。そしてもし、この応急の措置がそれ以上もつなら日本まで直接、行こうと思います。ただこの上は、東支那海で、できる限り大きな嵐に出会わないよう、主のお加護を願うつもりです。
 
  今度は、悲しい知らせを書かねばなりません。サンタ・マルタが長く辛かったあの船旅で体力をすっかり消耗し、マラリヤにかかったことは御存知の通りですが、このところ、彼はふたたび烈しい熱と悪寒とに襲われ、布教学院の一室で寝ています。あなたは、かつての逞しかった彼が今、どのようにみじめに痩せ衰えているか、想像できないと思います。眼は赤くうるみ、その額にのせた濡布も、瞬時にして、湯に入れたようにあつくなってしまうので、そんな彼をつれて日本に行けるとは到底、思えません。ヴァリニャーノ神父も、もし彼をここで療養のために残さないならば、他の二人の渡航も許可することはできないと言われました。
 「我々は先に向うに行き」そのマルタをガルペは慰めました。「君が元気になってくるための準備をしておくのだ」
  その時まで、果して無事に彼が生き続けていられるのか、そして我々が他の多くの信徒たちのように、異教徒たちの捕われの身となっているのか、誰が予言することができましょうか。
  頬から顎にかけてすっかり髭が伸びきって頬の肉も落ちたマルタは黙ったまま、窓を見つめていました。ここでは夕陽はまるでうるんだ赤い硝子玉のように港と海とに沈んでいくのが、窓から見えます。この時、私たちの同僚が何を思ったのか、長い間、彼を御存知だった貴方ならきっとわかって頂けると思います。タヨ河口からダセコ司教様や貴方たちに祝福されながら乗船した日。長い苦渋な旅。渇きや病気に次々とみまわれた船。それらを我々は何のために忍んだのか。この東洋の押しつぶされたような町までどうしてたどりついたのか。我々、司祭は、ただ人間のために奉仕するだけのためにこの世に生れてきたあわれな種族ですが、その奉仕が適えられぬ司祭ほど孤独でみじめなものはありますまい。特にマルタの場合は、ゴアに到着して以来、聖フランシスコ・ザビエルへの尊敬をひとしお深く持っていたのです。彼は、日本にどうしても到着するよう、あのインドで死んだ聖人の墓に毎日、詣でていました。
  我々は毎日、彼の病気が一日も早く恢復するよう祈っていますが、しかし病態は、はかばかしくはありません。けれども神は、我々の智慧では洞察することのできぬもっとも善き運命を人間たちにお与えになる筈です。出発はあと二週間後に迫っていますが、おそらく主はその全能の奇蹟によって、すべてを調和させて下さるでしょう。
  購入した船の修理は、相当にはかどっています。白蟻の食いあとは、新しく手に入れた板によってすっかり見ちがえるようになりました。ヴァリニャーノ神父の力で見つかった二十五人の支那人水夫が、ともかくも我々を日本の近海まで運んでくれるでしょう。これらの支那人水夫たちは、まるで幾月も食事をとらなかった病人のように痩せ細っているのですが、その針金のような手の力は驚くべきものがあります。彼等はこの細い腕を使って、どんな重い食糧箱でも平気で運びます。それはまるで、鉄で作った火掻棒を連想させます。あとは航海に必要な風を待つだけです。
  例の日本人キチジローも支那人の水夫にまじって船荷を運んだり、帆のつくろいを手伝っていますが、私たちは、あるいは我々の今後の運命を左右するかもしれぬこの日本人の性格をじっと観察することだけは怠っていません。今のところ、我々にわかるのは、彼にはかなり狡い性格があり、その狡さもこの男の弱さから生れているということです。
  過日、私たちはこういう光景を偶然みてしまいました。支那人の監督の眼が届く時はいかにも懸命に働いているように見せかけていたキチジローは、監督が現場から離れるとすぐ怠けはじめ、始めは黙っていた水夫たちも、たまりかねたのかキチジローを難詰しだしました。それだけなら何でもないのですが、驚いたことには三人の水夫たちに突き飛ばされたり、腰を蹴られたりしただけでもう真蒼になり砂浜に膝をついたまま、みにくく許しを乞うているのです。その態度は基督教的な忍耐の徳などとはほど遠い、あの弱虫の卑怯さというやつでした。浜にうずめた顔をあげ、なにか日本語で叫んでいましたが、その鼻も頬も砂だらけで、口からきたない唾が流れだしている始末でした。始めて会った時、日本の信徒たちの話をしながら急に彼が口を噤んだ理由もこの時、私にはなぜかわかるような気がしました。彼は自分で話をしながら、その話自体にすっかり怯えてしまったのかもしれません。とにかく、この一方的な喧嘩はあわてて中に入った私たちによってやっと、とり鎮めましたが、キチジローはそれ以後、我々に卑屈な笑いをうかべるようになりました。
 「本当に日本人ですか、あなたは」
  さすがにガルペが苦々しくたずねますと、キチジローは驚いたようにそうだと言い張りました。ガルペはあの多くの宣教師たちが「死さえ怖れない民」といった日本人の姿を余りに信じていたのです。一方では海水が踝をひたし、五日間にわたってこの拷問を加えられても節操を歪めなかった日本人がいます。しかし、キチジローのような弱虫もいるのです。そんな男に、我々は日本到着後の運命を委せねばならない。彼は、我々をかくまってくれる信徒たちと連絡をとると約束はしましたが、今となってはこの約束もどれだけ信じていいのかわかりませぬ。
  しかし、こう書いたからといって、私たちの気力が沮喪したなどとは決してお思いにならないで下さい。むしろ、私はキチジローのような男に自分の今後を委託したことを考えるとなぜか可笑しくなってしまうのです。思えば、我々の主、基督でさえも自分の運命を信じられぬ者たちにお委せになったわけです。とにかくキチジローをこの際、信ずる以外には他のいかなる方法もないなら、信ずることにしましょう。
  ただ一つ、困ったことは、彼がひどく酒のみなことなのです。一日の仕事のあと、監督からもらう賃金のすべてを酒に使っているようです。その酔い方も話にならぬもので、まるでこの男はある決定的な思い出が心の奥にあって、それを忘れるために酒を飲んでいるとしか思われません。
 
  澳門の夜は砲台を守る兵士たちの長い物哀しい喇叭の音でやってきます。我々の国と同じようにここの修道院でも夕食がすみ、べネディクシオンが聖堂で行われたあと、司祭も修道士も、蝋燭を手に手にとって、各自の部屋に閉じこもるのが規則です。今、中庭の石畳を三十人の下男が歩いてきました。ガルペやサンタ・マルタの部屋も灯が消えました。ここは真実、地の果てです。
  蝋燭の灯の下、私は膝に手をおろし、じっとしています。じっとして自分が今、あなたたちの知らぬ、あなたたちの一生涯、訪れもしないこの極地に来ているのだという感覚をじっと味わっているのです。それは、あなたにとても説明できぬ疼くような感覚——まぶたの裏にあの長いあまりに怖ろしかった海や、訪れた港が一時に浮びあがり、胸は苦しいほど絞めつけられます。たしかにこの誰も知らぬ東洋の町に今、いるということが、夢のようでもあり、いや夢でないのだと思うと、それは奇蹟だと大声をあげて叫びたくなります。本当に私は澳門にいるのか。自分は夢をみているのではないかと、まだ信じられないくらいです。
  壁に大きな油虫が這っています。乾いたその音が、この夜の静寂を破ります。
 「汝等、全世界に往きて、凡ての被造物に福音を宣べよ。信じ、洗せらるる人々は救われ、信ぜざる人は罪に定められん」使徒たちが会食している場所に復活の姿を現わしてこう宣べられた基督。私は今、その言葉に従いその顔を思い浮べます。あの方がどのような顔を持っていられたのか、聖書の何処にも書いてありませぬ。あなたも御存知のように初期の基督教徒たちは、一人の羊飼の姿の中に基督を思い浮べました。短いマント、小さな衣をつけ、片手で肩に担った羊の足をつかみ他の手で杖をもったその姿は、私たちの国でいつも見かけることのできる若者たちの恰好です。あれが初期の教徒の抱いていたささやかな基督の顔でした。それから東方の文化が、長い鼻、縮れた髪、黒い髭をもった幾分、東洋的な基督の顔をつくりあげ、更に王者たる威厳にみちた顔が多くの中世の画家たちによって描かれました。だが今夜の私にとっては、その顔はポルゴ・サンセポルクロに蔵されている彼の顔なのです。神学生の頃見たあの絵はまだ、なまなましく記憶に残っています。基督はその墓に片足をかけ、右手に十字架を持って、真正面からこちらを向き、その表情は、チべリアデの湖辺で使徒たちにむかい「我が羔を牧せよ。我が羔を牧せよ。我が羔を牧せよ」と三度、命ぜられた時の励ますような雄々しい力強い顔でした。私はその顔に愛を感じます。男がその恋人の顔に引きつけられるように、私は基督の顔にいつも引きつけられるのです。
 
  出発はいよいよ五日に迫ってきました。我々としては、自分の心以外に全く日本に持っていく荷物はありませんから、心の整理だけに没頭しております。サンタ・マルタのことはもう書きたくはない。可哀想な我が同僚のために神は遂に、病気の恢復という悦びをお与えになりませんでした。しかし神のなし給うことはすべて善きこと。彼にはやがてなさねばならぬ使命をひそかに主は準備されているのでしょう。
 
(つづく)