双旦拿”福袋“ 报名有惊喜---未名天日语寒假班
北京未名天日语培训学校2014年12月n1n2考前冲刺班
拨打电话图标 400-6602-400 ×
学日语
  课程分类
在线报名



  校区分布
电话: 010-51282758
  010-62760081
手机: 15901531168
北大资源东楼一楼1102
免费日语学习宝典
您的位置:首页>日语学习> 原著阅读>【日文原著】远藤周作《沉默》连载(前言)

 【日文原著】远藤周作《沉默》连载(前言)

作者:未名天日语 来源:未名天日语 时间:2017-05-23  
分享到:

 
想了解日语课程最新课表 请点击 名天日语学校
关注日本留学和旅游动态 请点击 未名天留学
 
下载沉默中文版小说 请点击 下载
 
まえがき
 
  ローマ教会に一つの報告がもたらされた。ポルトガルのイエズス会が日本に派遣していたクリストヴァン・フェレイラ教父が長崎で「穴吊り」の拷問をうけ、棄教を誓ったというのである。この教父は日本にいること二十数年、地区長という最高の重職にあり、司祭と信徒を統率してきた長老である。
  稀にみる神学的才能に恵まれ、迫害下にも上方地方に潜伏しながら宣教を続けてきた教父の手紙には、いつも不屈の信念が溢れていた。その人がいかなる事情にせよ教会を裏切るなどとは信じられないことである。教会やイエズス会の中でも、この報告は異教徒のオランダ人や日本人の作ったものか、誤報であろうと考える者が多かった。
  日本における布教が困難な状態にあることは宣教師たちの書簡でローマ教会にももちろんわかっていた。一五八七年以来、日本の太守、秀吉が従来の政策を変えて基督教を迫害しはじめると、まず長崎の西坂で二十六人の司祭と信徒たちが焚刑に処せられ、各地であまたの切支丹が家を追われ、拷問を受け、虐殺されはじめた。徳川将軍もまたこの政策を踏襲して一六一四年、すべての基督教聖職者を海外に追放することにした。
  宣教師たちの報告によると、この年の十月六日と七日の両日、日本人をふくむ七十数人の司祭たちは九州、木鉢に集められ、澳門とマニラにむかう五隻のジャンクに押しこめられて追放の途につくことになった。それは雨の日で、海は灰色に荒れ、入江から岬のむこうをぬれながら船は水平線に消えていったが、この厳重な追放令にかかわらず実は三十七名の司祭が、信徒を捨て去るに忍びずひそかに日本にかくれ残っていた。そしてフェレイラもこれら潜伏司祭の一人だったのである。彼は、次々と逮捕され処刑されていく司祭や信徒の模様を上司に書き送りつづけた。今日、一六三二年の三月二十二日に彼が巡察師アンドレ・バルメイロ神父にあてて長崎から発送した手紙が残っているが、それは当時の模様をあますことなく伝えている。
 
 「前の手紙で私は貴師に当時の基督教界の状態をお知らせした。引きつづき、その後に起ったことをお伝えする。すべては新しい迫害、圧迫、辛苦に尽きるのである。一六二九年以来信仰のために捕えられている五人の修道者、すなわち、バルトロメ・グチエレス、フランシスコ・デ・ヘスス、ビセンテ・デ・サン・アントニヨの三人のアウグスチノ会士、われらの会の石田アントニヨ修道士、フランシスコ会のガブリエル・デ・サンタ・マダレナ神父の話から始めよう。長崎奉行の竹中采女は彼らを棄教させ、もってわれらの聖なる教えとそのしもべを嘲笑し、信徒の勇気を挫こうとした。だが采女は、やがて言葉では神父たちの決心を変えさせることができないことを知った。そこで別の手段を用いる決心をしたのである。それは他でもなく、雲仙地獄の熱湯で彼等を拷問にかけることであった。
  彼は、五人の司祭たちを雲仙に連れて行き、彼らが信仰を否定するまで熱湯で拷問すること、ただし決して殺さぬようにと命じた。この五人のほかに、アントニヨ・ダ・シルヴァの妻べアトリチェ・ダ・コスタとその娘マリアも拷問にかけられることになったが、それはこの女たちが長い間棄教を迫られたにかかわらずそれに応じなかったためである。
  十二月三日、全員は長崎をたち、雲仙に向った。二人の女性は輿に、五人の修道者は馬にのり、人々と別れを告げた。一レグワしか離れていない日見の港につくと、腕と手を縛られ、足枷をはめられ、それから舟に乗せられた。一人一人、舟の舷側に固く縛りつけられたのである。
  夕方、彼らは小浜の港に着いたが、ここは雲仙の麓になる。翌日、山に登った。山では七人がそれぞれ一つの小屋に入れられた。昼も夜も彼らは足枷と手錠をかけられ、護衛に取りかこまれていた。采女の配下の数は多かったが、代官も警吏を送って警戒は厳重である。山に通じる道は、すべて監視人が配置され、役人の許可証なしに人々の通行を許さなかった。
  翌日、拷問は以下のようにして始まった。七人は一人ずつ、その場にいるすべての人から離れて、煮えかえる池の岸に連れていかれ、沸き立つ湯の高い飛沫を見せられ、怖ろしい苦痛を自分の体で味わう前にキリストの教えを棄てるように説き勧められた。寒さのため、池は怖ろしい勢いで沸き立ち、神の御助けがなければ、見ただけで気を失うほどのものであった。しかし全員、神の恵みに強められたため、大きな勇気を得て、自分たちを拷問にかけよ、自分たちは信奉する教えを絶対に捨てぬと答えた。役人たちはこの毅然たる答えを聞くと、囚人に服を脱がせ、両手と両足を繩でくくりつけ、半カナーラくらい入る柄杓で熱湯をすくい、各人の上にふりかけた。それも一気にするのでなく、柄杓の底にいくつか穴を開け、苦痛が長びくようにしておいたのである。
  キリストの英雄たちは、身動き一つせずこの怖ろしい苦痛に耐えた。まだ年の若いマリアだけは、あまりの苦痛のため大地に仆れた。役人は、それを見て「転んだ、転んだ」と叫んだ。そして少女を小屋に運び、翌日長崎に帰した。マリアはそれを拒絶し、自分は転んだのではない、母やその他の人々と共に拷問してほしいと言い張ったが、聞きいれられなかった。
  残りの六人は山に留まり、三十三日間過した。その間にアントニヨ、フランシスコの両神父とべアトリチェは、各々六回熱湯で拷問をうけた。ビセンテ神父は四回、バルトロメ神父、ガブリエル神父は二度であったが、その際、誰ひとり呻き声もたてなかった。
  他の人より長時間拷問にかけられたのは、アントニヨ神父とフランシスコとべアトリチェである。特にべアトリチェ・ダ・コスタの場合は、彼女は女性の身ながらあらゆる拷問においても、いろいろと勧告されても、男にもまさる勇気を示したため、熱湯の苦しみの他に別の拷問も行われたし、長時間小さな石の上に立たされ、罵りと辱しめのことばを浴びせかけられもした。しかし役人が狂暴になればなるほど、彼女はひるまなかった。
  他の人々は体が弱く、病気であったために、余りひどく苦しめられなかった。奉行はもともと殺すのではなく、棄教させることを望んでいたからである。またこの理由から、彼らの傷の手当てをするためにわざわざ一人の医師が山に来ていたのである。
  遂に采女はいかにしても自分が勝てないことを悟った。かえって部下から、神父たちの勇気と力を見れば、これを改心させるよりも雲仙のあらゆる泉と池はつきてしまうだろうという報告を受けとったので、神父たちを長崎に連れもどすことに決心した。一月五日、采女はべアトリチェ・ダ・コスタを或るいかがわしい家に収容し、五人の司祭を町の牢屋に入れた。彼らは今もその牢にいる。これが、われわれの聖なる教えが大衆に鑚仰されるようになり、信徒が勇気づけられ、暴君がさきに計画し期待したことと反対に打ち負かされるに至った戦いの赫々たる結末である」
 
  このような手紙をかいたフェレイラ教父が、たとえ、いかなる拷問をうけたにせよ神とその教会とを棄てて異教徒に屈服したとはローマ教会では思えなかったのである。
 
  一六三五年に、ローマでルビノ神父を中心として四人の司祭たちが集まった。この人たちはフェレイラの棄教という教会の不名誉を雪辱するために、どんなことがあっても迫害下の日本にたどりつき、潜伏布教を行う計画をたてた司祭たちである。
  この一見、無謀な企ては最初は教会当局の賛意を得なかった。彼等の熱意や布教精神はわかっても、これ以上、危険きわまる異教徒の国に司祭たちを送りこむことは上司としてただちに許すべきことではない。しかし聖フランシスコ・ザビエル以来、東洋でもっとも良き種のまかれた日本で、統率者を失い、次第に挫けだしている信徒たちを見棄てることも一方ではできない。のみならず当時ヨーロッパ人の眼から見れば世界の果てともいうべき一小国でフェレイラが転宗させられたという事実は、たんなる一個人の挫折ではなく、ヨーロッパ全体の信仰と思想の屈辱的な敗北のように彼等には思われた。こうした意見が勝ちをしめて、幾多の曲折を経たのちルビノ神父と四人の司祭の渡航は許可された。
  このほかポルトガルでも、この一団とは別な理由から三人の若い司祭が同じような日本潜伏を企てていた。彼等はカムポリードの古い修道院で、かつて神学生の教育にあたったフェレイラ師の学生だった人たちである。フランシス・ガルペとホアンテ・サンタ・マルタそしてセバスチァン・ロドリゴの三人には、自分たちの恩師だったフェレイラが華々しい殉教をとげたのならば兎も角、異教徒の前に犬のように屈従したとはどうしても信じられなかった。そしてこの若い彼等の気持はとりもなおさずポルトガル聖職者の共通した感情でもあった。三人は日本に渡り、事の真相をこの眼でつきとめようと考えたのである。ここでも上司は伊太利におけると同様、最初は首を縦にはふらなかったがやがてその熱情にまけ、遂に日本への危険な布教を認めることにした。これは一六三七年のことである。
  さて、三人の若い司祭たちはただちに長途の旅行の準備にとりかかった。当時ポルトガル宣教師が東洋に行くためには、まずリスボンからインドにむかうインド艦隊に同乗するのが普通である。当時インド艦隊の出発はリスボンをにぎわせる最大の行事の一つだった。今までは文字通り地の果てと思われた東洋の、しかも最端にある日本が、今、三人にはあざやかな形をおびて浮びあがった。地図をひもとく時、アフリカのむこうにポルトガル領の本インドがあり、その先々に数々の島とアジアの国々が散らばっている。そして日本はまるで幼虫のような形をして、その東端に小さく描かれている。そこまでたどりつくには、まずインドのゴアにたどりつき、その後更に長期の歳月にわたり多くの海をわたっていかねばならぬのである。なぜなら聖フランシスコ・ザビエル以来、ゴアは、東洋布教の足がかりとも言うべき町だったからである。二つの聖ポウロ神学院は東洋の各地から留学してきた神学生と共に、布教を志すヨーロッパ司祭が各国の事情を知り、それぞれの国に向う便船を半年も一年も待つ場所でもあった。
  三人はまた手をつくして彼等が知りえる限りの日本の状況について調べた。幸いこの点についてはルイス・フロイス以来、数多くのポルトガル宣教師たちが日本から情報を送ってきていた。それによると新しい将軍イエミツは、彼の祖父や父以上に苛酷な弾圧政策を布いているということだった。特に長崎では一六二九年以来、タケナカ・ウネメとよぶ奉行が暴虐非道、人間にあるまじき拷問を信徒たちに加え、熱湯のたぎる温泉に囚人たちを漬けて、棄教と転宗を迫り、その犠牲者の数は日に六、七十人をくだらぬ時もあるという話だった。この報告はフェレイラ師自身も本国にもたらしているから確実に違いない。いずれにしろ、自分たちが長い辛苦の旅をつづけた後にたどりつく運命は旅以上に苛酷なものであることを彼等は始めから覚悟しなければならなかった。
  セバスチァン・ロドリゴは鉱山で有名なタスコ町で生れ、十七歳で修道院に入った。ホアンテ・サンタ・マルタとフランシス・ガルペとはリスボン生れで、ロドリゴとカムポリードの修道院で教育を受けた仲間である。小神学校から日常生活はもちろん毎日机をならべた彼等は、自分たちに神学を教えていたフェレイラ教父のことをありありと憶えている。
  日本のどこかに今、あのフェレイラ師が生きている。碧い澄んだ眼とやわらかな光をたたえたフェレイラ師の顔が日本人たちの拷問でどう変ったかとロドリゴたちは考えた。しかし屈辱に歪んだ表情をその顔の上に重ねることは、彼にはどうしてもできない。フェレイラ師が神を棄て、あの優しさを棄てたとは信じられない。ロドリゴとその仲間とは、日本にどうしてもたどりつきその存在と運命とを確かめたかった。
 
  一六三八年三月二十五日、三人を乗せたインド艦隊は、べレム要塞の祝砲をうけながらタヨ河口から出発した。彼等は、ジョアン・ダセコ司教の祝福を受けた後、司令官の乗る「サンタ・イサべル号」に乗船した。黄色い河口がおわり艦船が青い真昼の海に出た時、彼等は甲板に靠れて金色に光る岬や山をいつまでも眺めた。農家の赤い壁や教会。その教会の塔からは艦隊を送る鐘が風に送られてこの甲板にまで聞えてくるのである。
  当時、東インドにむかうためにはアフリカの南を大きく迂回せねばならない。だが、この艦船は出発三日目にしてアフリカ西岸で大きな嵐にぶつかった。
  四月二日、ポルト・サント島に、それから間もなくマディラに、六日にはカナリヤ諸島に到着した後は、たえ間ない雨と無風状態に襲われた。それから潮流のため、北緯三度の線から五度まで押しもどされてギネア海岸に突きあたった。
  無風の時、暑さは耐えられるものではなかった。その上、各船には多くの病気が生じ、「サンタ・イサべル号」の乗組員でも、甲板や床で呻く病人の数が百人をこえはじめた。ロドリゴたちは、船員と共に病人の看護に走りまわり、彼等の瀉血を手伝った。
  七月二十五日、聖ヤコボの祝いにやっと船は喜望峰を廻った。喜望峰をまわった日に、再度の烈しい嵐が襲ってきた。船の主帆がくだかれて烈しい音をたてて甲板にぶつかった。同じ危険にさらされた前部の帆を、病人たちもロドリゴたちもかりだされて、漸くにして救った時、船は暗礁に乗りあげたのである。もし、他の艦がただちに救いにこなければ、「サンタ・イサべル号」はそのまま沈んだかもしれない。
  嵐のあとはふたたび風が凪いだ。マストの帆は力なく垂れ、ただ真黒な影だけが甲板に死んだように倒れている病人たちの顔や体の上に落ちている。海面は暑くるしく光るだけで波のうねりさえない毎日である。航海が長びくにつれ食糧と水も不足になってきた。こうしてようやく目的のゴアに着いたのは十月九日のことだった。
  このゴアで彼等は本国にいるよりもっと詳しく日本の情勢を聞くことができた。それによると、三人の出発した前の年の十月から、日本では三万五千人の切支丹たちが一揆を起し、島原を中心にして幕府軍と悪戦苦闘した結果、老若男女、一人残らず虐殺されたとのことである。そしてこの戦争の結果、この地方はほとんど人影をみぬほど荒廃した上、残存の基督教徒が虱つぶしに追及されているそうである。のみならずロドリゴ神父たちに最も打撃を与えたニュースは、この戦争の結果、日本は彼等の国であるポルトガルと全く通商、交易を断絶し、すべてのポルトガル船の渡航を禁止したとのことであった。
  日本にむかう母国の便船が全くないことを知った三人の司祭は、絶望的な気持で澳門までたどりついた。この町は、極東におけるポルトガルの突端の根拠地であると同時に、支那と日本との貿易基地であった。万一の僥倖を待ちのぞみながら、ここまで来た彼等は、到着早々、ここでも巡察師ヴァリニャーノ神父からきびしい注意をうけねばならなかった。日本における布教はもはや絶望的であり、これ以上、危険な方法で宣教師を送ることを澳門の布教会では考えていないと神父は言うのである。
  この神父は、もう十年前から日本及び支那に向う宣教師を養成するために布教学院を澳門に建設していた。のみならず日本における基督教迫害以来、日本イエズス会管区の管理はすべて彼によってなされていた。
  ヴァリニャーノ師は三人が日本上陸後探そうとしているフェレイラについても次のように説明した。一六三三年来、潜伏宣教師たちからの通信も全く途絶えてしまった。フェレイラが捕えられたということ、長崎で穴吊りの拷問を受けたことは長崎から澳門に戻ったオランダ船員から聞いてはいるが、その後の消息は不明であり、それを調査することもできぬ、なぜなら問題のオランダ船はフェレイラが穴吊りに会ったその日に出帆したからである。当地でわかっているのは新しく宗門奉行に任命された井上筑後守がフェレイラを訊問したということだけである。いずれにしろ、こうした状況にある日本に渡ることは、澳門の布教会としては、とても賛成できぬ。これがヴァリニャーノ師の率直な意見であった。
  今日、我々はポルトガルの「海外領土史研究所」に所蔵された文書の中にこのセバスチァン・ロドリゴの書簡を幾つか、読むことができるが、その最初のものは以上書いたように、彼と二人の同僚がヴァリニャーノ師から日本の情勢を聞いたところから始まっている。
 
                                                      (つづく)